おばあちゃんが亡くなり、僕が撮った写真が遺影となりました。
不謹慎な話しだけど、田舎で祖父祖母の葬儀に出る時は、
お祭りに来ているような高揚感があります。
久しぶりに親戚や従兄弟達と会えて話が出来るし、懐かしい顔を見たり、
葬儀の手順が進んでいくのも、そのお手伝いをやったりするのも、
どこかお祭りに参加しているような賑やかさを感じます。
お通夜の夜は斎場に寝泊まりしたので、
祭壇の前で寝ているおばあちゃんに、ちょくちょく線香をあげられます。
それは死者への手向けというより、
普通に生きているおばあちゃんの様子を見に行くような感覚で、
この祭りの中心には、いつもおばあちゃんがいる。
お爺ちゃんの時もそうだった。
わいのわいのみんなで右往左往しながら祭りは進行していき、
火葬場へ場所が移る。
白木の棺は炉の中へ消え、順番を待ってその前でお焼香する時、
ごうごうと騒ぐ炎の音を聞いた。
その時はじめて現実を叩き付けられる。
お祭りなら毎年参加できる。何度でも繰り返されていく。
でも、おばあちゃんの姿はこの世から確実に消え、二度と会うことは出来ないのだ。
また明日、と続いていくはずのおばあちゃんと僕たちの関係を、
炎の音は、冷たく断ち切った。
火葬場の外、雨の中、白い花が咲いている。
そういえばこの花は、いつも雨に包まれているな……、と
なんとなくおセンチに考えていると、
焼き上がるのを待つ間、またオニギリやらビールやらが振る舞われ、
「あの花はなに? よく分からないから、うちの人にはボケと教えちゃった」
叔母に明るく聞かれる。
「全然違うじゃないですか(笑)ヤマボウシですよ」
梅雨時が花期で、白く花びらに見えるのはじつは葉っぱで……、
なんて話しをしているうちに、またお祭りのような感覚が蘇ってくる。
おばあちゃんは空へ昇り、やっとお爺ちゃんと再会してるのだろう。
そう思うと嬉しくなる。
ゆるやかな高揚感の中に、寂しさは沈んでいくけど、
おばあちゃんはやっぱりお祭りの中心にいます。
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